2010年、セドナ行きを断った理由その1。
体力的な問題。
これは、私にとって、精神的体力&肉体的体力の両方を意味していた。
誰かと一緒の時間を過ごすことは、精神的に体力を必要とすることと感じていた。
気心が知れ、互いのクセや傾向を知り尽くしたリラックスする相手ならまだしも、
ほとんど人となりを知らない人と旅に出ることなんて、当時の私には、信じがたいことだった。
もちろん、肉体的体力も使う。
ゆうこさんに誘われた旅に行くことで、
恒例となっている親友との旅行をあきらめなければならない事態は絶対に避けたかった。
いま思えば、この時点で、なんとも制限のかかった思考回路だ。
ひとつとるなら、ひとつをあきらめなければならない。
楽しいことは、少しだけ。全部取りなんて、ありえない。
もっと働かなければならない。
当時の私は、まだまだ多大な罪悪感を抱えて生きていた。
楽しい毎日を送りたいと思いながら、
楽しいことを行うことを、あれもこれも制限していた。
まるで、お菓子はひとつしか買ってはいけない子どものように。
その価値観は、どこからやってきたものなのか?
親?世間?過去生?
いずれにせよ、これからもその「制限のかかった」価値観のまま生きていきたいのか?
いまの私は、とっても快適に生きていると言えるのか?
――答えは、ノー。
もっと自由に生きたい。
でも、自分にとって、自由というものが、どんなものなのかわからない。
自分にとって、どのくらいのバランスがいい具合なのかもわからない。
だって、私は、私の価値観の中で正誤を付けて判断して、生きてきたのだから。
リミッターを外そう。
一回、すべてを明け渡すつもりで、旅にでよう!
人となりは、よくわからないにせよ、
二つのこと(あとで記載)を話してくれた当時のゆうこりんという人に、惹かれていた。
それは、言葉にはできない「何か」惹かれるもの。
そういう感覚って、とっても大切だと思う。
そのかすかな直観を頼りに、私は、体力的制限をはずすことにしたのだ。
この時点で、すでに人生のフィールドは広がり始めていた。
「何か」惹かれる。そして、その先には、自分の可能性を感じる。
行動を起こすとき、本当は、それだけで十分なのかもしれない。
あなたの中に、純粋に惹かれる気持ちがあるのなら、素直に飛び込んでみてください!
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(ひろか編その3〜経済的制限をはずすへつづく)