※この原稿は2月に執筆しました。3月11日の震災以後、様々な変化があり、これを書いた当時とはいろいろな状況が違っていますが、敢えてそのまま掲載します。人生の旅はとても深くときに厳しいけれど、決して旅を嫌いになっちゃいけない。いつでもそこに旅はある。そう思います。(ゆうこりん)
遠くへ行き過ぎた者だけが自分がどこまで行けるのかを知ることができるT.S エリオット On Poetry and Poets
今、この文章を飛行機の中で書いてる。
読んでいる雑誌では「旅に行きたくなる」特集。
そして、わたしたちはもうすぐ本当に旅に出るね。
それも、インド、タイへの2週間の旅。
社会人としては結構期間も長いし、インドという国は
きっと私たちの想像を超えた常識で動いているところのような気がしてる。
わたしたちはいったいどこへ向かっているのだろう?
旅の特集をしている雑誌にこんな引用文が掲載されていた。
遠くへ行き過ぎた者だけが、
自分がどこまで行けるのかを知ることができる、と。
インドに行ったからといって、自動的に何かが変化したり
人生が変わったりするわけじゃない。
けれど、自分の知らない世界を知ることは、
自分の中の深い部分にある何かを突き動かすのだと思う。
わたしたちが向かおうとしている北インド・ダラムサラ。
そこは、インドの首都デリーから夜行列車で1晩、
そこからまたバスで数時間かけてしか行けない場所。とても遠いところ。
物理的にも、自分の今の生活からも。
そこは、チベットの人たちが、中国の弾圧を逃れて亡命政府を置いている場所。
その昔は、ほんとうに何もない荒涼とした土地だったらしい。
そこで何を思い、何を感じるか?
そこで感じたことが、いったいぜんたい日本に戻ってきて
いつもの生活に戻ったときに、何か役にたつことがあるのだろうか?
目に見える範囲のことは何も変わらない。
けれど、自分の知らない世界、想像を越える世界、
自分が想像しうることの限界を超えて遠くに出かけたとき、
そこでしか感じられないものがきっとある。
そこできっとわたしたちは、
自分ひとりの存在があまりにもちっぽけなことを実感し、
だからこそ、今の自分ができることが何なのか?を
本当の意味で知ることになるのかもしれないな。
この文章を読んでわたしはそう思ったんだ。
ひろかっちは、遠くにいくことについて
旅に出る意味ってなんだと思う?
from ゆうこりん
Comment [1]
DOORSさん
Dear ゆうこりん
深い問いかけをありがとう。
なんだか、胸にズギュンと弾丸を打ち込まれた感じ。
自分の中のまだ捉えられていない深い部分が、
激しく反応したような感覚に襲われた。
今回は、昨年のセドナ以上に、
自分の根源に関わる何かが、突き動かされる旅になる予感がする。
ゆうこりんからのレターを読んで、
初めてそんな怖さにも似た感覚に見舞われたよ。
何かが変化する前って、怖かったりするもんね。
今、感じている怖さは、「まだ見ぬ自分」に対してでもあるのかな。
私は、旅を通して、
自分でかけてきた人生の制限を、たくさんはずしてきたように思う。
時に意図して、時に意図せずして。
旅にでると、自分が設けていた枠や概念がどんなにちっぽけだったかを知る。
限界だと思っていたことを軽々超えられたり、
逆に、できると思っていたことが出来なかったり。
普段は見過ごしている感覚や感情と、
リアルに向かい合うことにもなる。
そこで初めて、自分がこんな風に思っていたことや感じていたこと、
大切なこと、こだわり、いらないもの、いろんなことに気づくんだ。
はっきり言ってしまえば、旅に意味なんてない。
人生に意味なんてないっていうのと同じ。
だから、意味を持たせようとは、思わない。
でも旅は、時に私を癒し、なぐさめ、原点に戻し、
時に、私を厳しく突き動かし、時に優しく寄り添ってくれた。
現地で起こるすべてのこと、出会うすべての人、
それらを両手を開いて感じて味わう、ただそれだけのことなんだろう。
そうする中で、わたしたちは自分というものを知ってゆく。
いろんな価値観、世界を知った上で、どうやって生きようって思う。
行き過ぎたときにだけ、見えてくるもの。
そこを超えてみなければ、自分の真の望みはわからない。
本当はどんな風に生きたいのかわからないのかもしれないね。
「行き過ぎること」。
それは人によっては、一人で食事に行くとか、習い事を始めるとか、
他人からしたら何でもないことであるかもしれない。
けれど、自分の今の枠を超えて飛び出してみること。
一時的に負荷はかかるけど、とても大切なことだって私は思うよ。
From ひろかっち
コメントする