時々、仕事を休み、
人と離れて
一人きりでどこかへ行って、
ただ、「そこにいる」ことは、
とても大切です。
-アイリーン・キャディ
Dear ゆうこりん
このwondering letterを書こうと思うと、いつもは、過去にストックしているものや、最近どこかで目に留まった文言が心に響いて、これにしよう!とすぐ決まるのに、今回は、宙ぶらりんにしている期間が長かったよ。
かつて目にしたものとはいえ、「今の私」に響く旬のものを取り上げたいからさ。そう思った時、今回は、『心にひびく知恵の言葉』という本を手にとっていたよ。
そして、「いまの私が、往復書簡の題材にするにふさわしいメッセージをください」と、本を開いた。そこで、出てきた言葉が、これなんだ。
今の私は、今年起こったことや感じたことを、必死に乗り越えようとした時期が終わって、ほんの一息をついているような感覚にある。でも、もうすでに次の展開や広がっていくほうは見つめていて、具体的にやろう、動こうと思うことが、山のようにある。
そういうときって、もっと動かなくてはと、焦っちゃうんだよね。
やりたいこと、自分で勝手にやらなきゃって決めたこと、そういうことが目の前にいっぱいあるように感じたとき、休む間なく進もうとするのは、私の悪いくせ。そんなときに目に留まったこの文言は、まさにメッセージだったよ。
ここでいう仕事って、会社に行って働くということだけじゃないのは、わかりきったことだけれど、私たちは、いつもどこかで、「〇〇をしなければ」っていう思いに駆られて生きている気もするんだ。
そういう感覚をはずした分、軽やかに生きられるように思う。そして、羽ばたけるとも思う。
ただ、「そこにいる」こと。
そういう時間を自分に許すこと。
そういう時間を意識的に持つこと。
休む間なく動いて、時間を有効に使おうと考えがちな私にとっては、本当に、大切なこと。ゆうこりんは、私にこの感覚をいつも教えてくれようとしているよね。
ただ、美しい自然のなかに身をゆだねていること。
ただ、美味しいお茶を飲んでいること。
ただ、緑の木々や青い空を眺めていること。
私は、本来そういう感覚が大好きなんだ。なんにもしない時間があったって、いいんだよ。人生のなかで、この感覚を持っていること、時に応じて「ただ、そこにいる」時間を持つことは、とても大事なことだと、いまは心から思う。
ゆうこりんにとっては、この感覚は、どんな風にとらえられていたり、どんな風に行動に移していたりするんだろう。こういう感覚の大事さに気づいた時期もあったのかな?それとも、もともとこの感覚は備わっていたものだったのかな?
あえて、往復書簡として、ゆうこりんのお返事を待っているよ☆
From ひろかっち
Comment [1]
DOORSさん
ひろかっち
問いかけをもらってから、ちょっと時間が経ってしまったけれど、
私なりの答えと、思ったことを書いてみることにするね。
ひろかっちの問いかけには、ふたつの要素があるように思う。
ひとつは、「○○しなければ」という既成概念についての想い。
そしてもうひとつは、ただ、「そこにある」ということ。
このふたつは、一見結びついているように思うし、実際に
とても近い関係性があるとは思うのだけれど、実はちょっと
だけ違う気がしているんだ。
確かに「〜しなければ」という想いから離れることが出来れば
できるほど、自由に羽ばたけると思う。
けれど、そういう概念から外れたとしても、そういう人が全員
時々、仕事を休み、人と離れて一人きりでどこかへ行って、
ただ、「そこにいる」こと、をしているかというと、
そうでもないような、そんな気もするんだよね。
****
私は、兄弟姉妹がいない一人っ子で、昔から1人きりでいる状態って
結構慣れているんだ。一人暮らしも長いし、逆に誰かと一緒に
いるほうが、気を遣ってしまって疲れちゃったりもする。
だから、仕事を休んで、一人きりでどこかへ行って、ということは
自分にとっては必須のことで、そこで初めて、○○しなければ、という
概念から離れられるような、そんな感覚があるよ。
ひろかっちは、おそらく、○○しなければ、の呪縛を離れなければ、
何もしない時間、ということを許可できなかったんだろうね。
私は、逆なんだよ、おそらく。
何もしない時間を得て初めて、○○しなければ、の呪縛から
逃れられる、とどこかで知っていたのだと思う。
だからこそ、私は昔から、常に1人でどこかへ出かけていたのだろう。
そうした時間がないと生きていけないほどに、その時間こそが
自分自身にとって大切な、大切なものだったのだと思う。
今は、○○しなければ、というような義務感や役割を演じる、ということを
ある程度放棄していて、自由な感覚を得ている。
だから、私は昔ほど、どこかへ1人で行って何もしない時間をつくる
ということをしなくても、大丈夫になっている、ということなんだと思うな。
その行動がどんな動機からか、ということはさておいても、
とどのつまり、何にもしないような、一見無駄っぽい、どうでもいいような
そんな時間を持つことは、かけがえのない幸せというものと、
ほとんど同義語なんじゃないかなって私は思うよ。
だって、ただ美しい自然のなかに身をゆだねて、
美味しいお茶を飲んでいて、
緑の木々や青い空を眺めていられるなんて、
本当に幸せ以外のなにものでもないじゃない?
ゆうこりん
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