今ならわかる。最低の設定の中で、その時私は最高の幸せの中にいたんだということが。あの日の、あの時間を箱につめて、一生の宝物にできるくらいに。そのときの設定や状況とは全く関係なく、無慈悲なくらいに無関係に、幸せというものは急に訪れる。どんな状況にあろうと、誰といようと。ただ、予測することだけが、できないのだ。自分で思うままに作り出すことだけができない。次の瞬間には来るかもしれないし、ずっと待っていてもだめかもしれない。まるで波やお天気のかげんのように、誰にもそれはわからない。奇跡は誰にでも平等に、いつでも待っている。----『デッドエンドの思い出』よしもとばなな
Dear ひろかっち
この文章は、小説の中で描かれている「幸せってどういう感じ?」と問い、応えたエピソードの結論の部分なんだ。主人公の女性は、相手の男性と婚約中だったはずなのに、いつの間にか相手に別の女性ができていて、すでにその人と一緒に暮らし、結婚も決まっていたということが判明したばかりという、人生最悪、という状況の中で、幸せ、というものを感じ取っている、というシーン。
このエピソードでは、主人公の女性は、幸せというもののたとえとして、こんなことを言っているんだ。
「私は、のび太くんとドラえもんを思い出すな。」...「私はその絵が描いてある小さな時計を持っているの。のび太くんの部屋のふすまの前で、ふたりは漫画を読んでいるの。にこにこしてね。そのあたりには漫画がてきとうにちらばっていて、のび太くんはふたつに折ったざぶとんにうつぶせの体勢でもたれかかって、ひじをついていて、ドラえもんはあぐらをかいて座っていて、そして漫画を読みながらどら焼きを食べているの。ふたりの関係性とか、そこが日本の中流家庭だっていうこととか、ドラえもんが居候だってことを含めて、幸せってこういうことだな、っていつでも思うの。」
そして、その話をしているのが、たまたま居候をさせてもらっている相手と、くつろいでいて、親しく芝生の上でおいしいハンバーガーを食べていたから、じゃあ、今ってすごく幸せだよね、って話になるんだけれど。
これは小説の中の設定で、こんな風にわかりやすい例は実生活にはない、という風には私は思わない。こんな風に、劇的に、つらい中でこそ感じる幸せって、実はいっぱいあるような気がしてならないんだ。
じゃあ私にとっての幸せの象徴は?っていうのを考えてみるとーーー
今は、海辺で波音を聞きながら、のんびりたき火して、親しい相手と、寒いねーなんていいながら、あったかい紅茶を飲んでいる、そんな風景を思うな。そして黙って火がパチパチ言うのをなんとなく聞いていて、その沈黙が心地いいようなそんな感覚。
それは、自分がもう実際体験している感覚なんだけど、確かにそれって、人から見えるような、頭で考えるような「幸せ」っていうのとは違うのかもしれないと思う。精神的にズタズタな状況でも、もしそんなシチュエーションがあったなら、もうそれは、やっぱり幸せな瞬間でしかなくて。
だから、幸せは無慈悲に予測もできずに突然、訪れるっていうこの説に関しても、私はその通りだと思ってるんだ。
ひろかっちにとっての幸せっていうのは、どういう感じ?
そして、突然それが起こるっていう考え方についてはどんな風に思ったかな?
Comment [1]
ひろかっちさん
Dear ゆうこりん
お返事が遅くなっちゃった。
まずは、私にとっての「幸せの感じ」。
私も似ていて、気持ちいい自然の中や素敵なカフェで、何をするでもなく、ただ心地いいねぇって、親しい人と一緒に過ごす時間を思うな。
私の場合の絶対的ポイントは、心を許し通わせあっている人と一緒にいるってことなんだけど、ゆうこりんにとっても、そういうことだよね。どんなに美しい景色やすべてが整っている状況のなかでも、心に火が灯るような感覚がなければ、無に等しい。
でも、その場所の空気感や雰囲気や、自然がくれるエネルギーってとても大きいとも思うんだ。
「幸せの感じ」を呼び覚ます力が、自然や場所にはあると思う。
例えば、先日。ゆうこりんと一緒にドライブをしていて、夕暮れどきに富士山が綺麗な姿を見せてくれたでしょう。いつまでも見ていたい美しい夕焼けと海、波の音、時空を超えたかのようなカフェのぬくもり。
私は、あのとき確かに、幸せだって感じていたんだ。
じわじわと身体中が、満たされていく感覚。これを幸せと呼ばずして、何を幸せと呼ぶのだろう。
私の状況といえば、母が倒れて、肉体だけでなく、精神の死の淵と感じる現実を間近で体験して、必死に受け止めてきて。実は、もと通りのものなんて、なんにもなくて。
でも、その経験のなかから、いままでなかった家族の形とか思いとか、私の生き方とか、いろんなものが新たに芽生えた。
それは、私自身が、最悪と思われた現実のなかでも、自分の人生をあきらめず、全力で受け止めて、そのなかでできること、自分の喜びや楽しみを果敢に手にする方向で動いてきたからなのだとは思うよ。
でも、ひとりじゃここにはたどり着けなかったのも事実。
たくさんの人が、私を励まし支えてくれた。
ゆうこりんもその一人で、景色を一緒に見ながら、なんにも言わないでも、こういう私を感じてくれているのを感じていたよ。
そして、ゆうこりんの生き方に、その思いが呼応していることも。
それぞれの全く違う人生を歩みながら、時にそういう共鳴を感じて、同じ時を一緒に過ごせる瞬間を、私は幸せだなぁって思う。
それは、ゆうこりんに限らず、私の人生で、いろんな人に感じることだなぁ。
**
昔はね、幸せって誰かや状況がくれるもんだと思って他人まかせなところもあってさ。そういう私は、幸せは、突然やってくる!ってことを、自分ではなんともできないものとして野放しにしていたんだと思う。
最悪の状況にいるときって、幸せがいつやってくるのか見えなくなりそうだよね。でも、よく見渡せば、そういう現実のなかでも、幸せって感じることは必ずあるはずなんだ。
なぜって、幸せって、「私がどう感じるか」だけのことなんだから。
実は、最悪な状況と思われるなかのほうが、小さな幸せを感じる感度が上がるのだろうとさえ思う。
今はね、幸せっていうのは、「今、幸せ」って気づいた人のところに、さらなる幸せがやってくるんじゃないかなって思うんだ。
「幸せは無慈悲に予測もできずに突然訪れる」。
その通りだと思うよ。逆もしかりのように。
でも、幸せに関して言えば、自分のなかに何かスイッチのようなものがあるように思えてならないんだ。
そして、そのスイッチを入れられるのは、自分自身。
最悪の状況、状態のなかでも、その状態を野放しにして、そのままにしておくんじゃなくね。
心から祈るとか、元気になる水だって言い聞かせて飲むとか、いまは思いきり泣くんだ!って決めて泣くとか。
はたからみたら、そんなことやったってなんになる?って馬鹿にされそうなことでも、自分が前に進むためのなにかを自分にしてやる、許してやる。
その中から、ちっちゃなちっちゃな幸せって感じる心を芽生えさせる。
そういう風に自分に対して、素直になったとき、幸せって突然やってくるような気がする。
そう思うと、今後がとっても楽しみだ。
今ある幸せを感じながら、これから「もっと大きな幸せ」って感じるものがやってくる。
未来は、自分の手中にあるけれど、それを守る大きな力が必ずある。
そんな感覚で過ごせたら、それこそ、幸せだなって思うよ!
From ひろかっち
コメントする