残された時間を どう使うかそれには正解がありませんから。-石田衣良原作ドラマ『美丘 君がいた日々』の台詞より
Dear ゆうこりん
ゆうこりんは、この原作やドラマを知っているかな?
実は、私も原作も読んだことがなければ、ドラマもすべての回を見たわけではないんだ。
たまたま見た回で、主人公の女の子のお母さんが言った台詞に、
胸を揺さぶられたのを覚えている。
私なら、どういう選択をするのだろう・・・、と。
知らないかもしれないので、簡単にストーリーを説明するね。
主人公は、大学3年生の女の子(名前が、美丘)と男の子(太一)。
美丘は、脳の病気で余命が限られているのだけれど、
二人は、恋をして、愛し合うんだよね。
美丘には、残された時間がない。
自分が元気に生きていられる時間を、誰と過ごすか。
二人は、一緒に住みたいと両親に言うのだけれど、
もちろん、最初は、両方の両親とも反対をする。
最終的に、二人が一緒に住むことを承諾してやってほしいと頭を下げたのは、
一番反対していた美丘の母親だった。
未成年の娘。
その最期の時間を一緒に過ごしたいという思い。
それでも、娘の人生としての幸せを願うとき、見守る方向で手放したの。
この台詞を改めて、いま題材にしたとき、思うことが二つある。
ひとつは、親に対する思い。
好きな人と抱き合っているとき、こんなことを思ったことがある。
「お母さん、お父さん、最期の日を一緒にいられなくて、ごめんなさい。
私は、今日が最期の日だったとしても、この人と寄り添っていられて、
とても幸せです。だから、どうか安心してください」、と。
私は、余命宣告をされているわけではないし、ましてや10代でもない。
いい大人。それなのに、両親にとって、いつもそばにいる娘という役割を
演じてきたように思う。そして、それがいつも自分を縛る足かせになってきた
のだと思う。勝手に両親の望む良き娘を演じて、足かせにしてきたように思う。
そこから逃れたいと思い、必死に遠くまで来たけれど、結局、
心の距離は変わってはいなかった。
この台詞が響いたのは、自分の命がもう数か月しかない、
残されたわずかな時間を誰と過ごすかという究極の状態で、
自分の本当の気持ちに正直に行動した美丘に感銘を受けたんだ。
好きな人と一緒にいる。
それが当たり前のことなのかもしれない。
でも、私にとっては、それはいつも育ててもらった大切な家族との
訣別のような感覚にさえさせられていたことに気づいたよ。
そして、時間をどう使うかに、正解なんてないことも、
本当にその通りだと今なら思える。
もうひとつ思ったのは、余命宣告をされていなかったとしても、
私たちは、いつも残された時間のなかにいるってこと。
命を受けて誕生したときから、肉体の死は、刻々と近づいている。
私は、昔から人生は短い、時間がないと思いがちで生きることを焦っていたけれど、
焦りとは少し違う感覚で、最近は、よく残された時間ってことを思う。
「残された時間をどう使うか、そこには正解はない」。
ここでもまた、本当にその通りなのだと思う。
時間の使い方、それは言葉を変えれば、「人生の使い方」。
私たちは、どこかで、時間の使い方、人生の使い方に、正解を求めている気がしてならない。
正解なんて、どこにもないんだ。
今、自分が思った気持ちに正直に生きること、その繰り返しが
歩んできた軌跡になるだけ。
私たちは、誰しもが、残された時間を過ごしている。
いまの自分の選択にとまどったときは、思い出そうと思うよ。
そこには、正解なんかないんだってこと、を。
私と似ている感性を持ちながら、歩んできた道も、感覚や感じ方もまったく違うゆうこりんは、何を感じるのかな?
From ひろかっち
Comment [1]
DOORSさん
ひろかっち
「残された時間をどう使うか、そこには正解はない」ーについて。
この問いかけに、私はなにを答えればよいのだろうか?とずいぶん考えたよ。
昔はどうだったかわからないけれど、少なくとも今の自分にとって、
親がどうとか、世間がどうとか、そういう目で自分を縛ることは、ほぼなくなった
から、そんなことは当たり前で、正解なんてあるとも思ってないし、そもそも
そんなことを正解や不正解という二者択一で考えることが、まずおかしい、とも
思う。
ただ、この文章を読みながら、ぼんやりと、自分が今一番大事にしている考え方の
礎となった出来事を思い出した。もうずいぶんと昔のことになってしまったけれど
私にとっては、一生忘れることができない、決定的な出来事を。
「もうすぐこの人はこの世からいなくなる可能性がある」
医者から余命宣告をされたわけでもないし、死にかけの事故にあったわけでもない
けれど、私は、当時付き合っていた恋人が、あと1ヶ月位で死んでしまう可能性が
ある、ということを受け入れなくてはならなくなる、ということがあったんだよね。
お伽話のような、でも本当の話。
「いや、そんな馬鹿なことが絶対にあるわけない」という思いと、
でもそれでも消えない「死」への恐怖。
あと1ヶ月で愛する彼が死ぬのだとしたら、私はなにができるのだろう?
あの頃の私は、本当に真剣に、そのことについて考え続けた。
刻一刻と迫るXデー期限。奇妙なほど静かに過ぎていく毎日。
こういう設定って、よく小説なんかであるよね・・・と思いながら
これがフィクションならいいのに。全部夢だったらいいのに、と何度も思った。
その中で、私は一種の悟りを開いたのかもしれない。まだ10代だった幼い心の中で。
人はいつか死ぬ。本当に目の前からいなくなるのが、
ーそんなことを全く信じられなくてもー明日かもしれない、とわかったら、
人は何をするのか?ということを。
そのとき私がしたことは、たった2つのことだった。
「ただ毎日を楽しく過ごす」そして「心の中で祈り続ける」こと。
それしか出来なかった。それ以外のことは、何も意味がなかった。
圧倒的な不安と悲しみと自責の中で、「楽しく過ごす」ことは
実際やってみると結構たいへんな作業だった。意思の力を必要とした。
けど、絶対負けないぞ、と思っていた。負けたら彼は本当に死ぬのだ、と
私もなんとなく思っていたから、この魂の勝負は絶対に負けられなかった。
だから毎日、絶対に「ふつうの」日々を過ごしてやる!
ふつうにご飯食べて、学校行って、笑って、しゃべって、過ごしてやる!と
思っていたし、実際そうしていた、と思う。
けれど、それでも圧倒的な不安に打ちのめされそうになったとき、
できることは、心の底から、祈り続けることだけだった。
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今思えば、単なる恋人の「死への恐怖への妄想」に付き合わされただけかもしれない。
そう、その人は決して命を失うことはなかったのだから。
けれど、その時から私は、本当に、人はいつか死ぬのだ、ということを
身を持って体験した。それが明日かもしれない、ということも。
頭でわかっていることと、体感することとは、まるで違うことで、
私はそのときの経験で、まさに「体感」したのだろうと思う。
残された時間なんて、人にはそうそうないんだ、ということを。
正解とか、不正解とか考える暇もない。
本当に、命なんてはかないものなんだよ。
だとしたら、自分の人生が、そんなに貴重な時間の一部なのだとしたら
私は、絶対に「死ぬまでちゃんと生きよう」と強く思ったんだ。
ただダラダラ生きるんじゃなくて、ちゃんと生ききる。
それが、はからずも人生を途半ばで終えることになった人への
供養だとも思う。せっかく生かしてもらっている命なのであれば、
ちゃんと使わないと、もったいないよね。
このことは、は今の自分の人生の指針であり、軸であり、
きっとこれからもずっと、持ち続ける信念。
だから私は、残された時間を、自分の意志でしっかりと、
それが正解とか不正解なんて考えることもなく、楽しく、そして淡々と、
死ぬまで生き続けよう、と、思うよ。
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