小さいころから、星を眺めるのが大好きだった。
季節を問わず姿の見られる、北斗七星やカシオペア。
冬が訪れると、オリオン座が顔をだし、
夏には、さそり座がめぐってくる。
七夕には、彦星と織姫がひそやかに逢っているのかと想像すると、
それだけで、天の川は奇跡の川のようにも感じられた。
それは、父や母、妹との共通の話題で、
私たち家族は、星をとおして宇宙の持つ美しさやロマン、
もっというなら、私たちがここに存在する神秘を感じあっていたのかもしれない。
小学生のころ、父の買った小さな望遠鏡。
娘たちに見せてやろうと、少年みたいにはしゃいで準備をする父と見守る母。
仕事に人生をかけ、母とともに走り続けた父が、
私たち姉妹と過ごしてくれる時間は、いつもスペシャルだったように思う。
そんな夜は、いつも使っている裏の駐車場が、
自分たちだけの宇宙基地のように思えた。
こっそり夜に外に出て、家族で星を眺める時間は、
子どもだった私のわくわくする気持ちを掻き立てた。
そんな風に感じたのは確かなのに、
そのわくわくした躍動を父に伝えることはできなかったように思う。
父の買ってくれた望遠鏡をほめなくちゃと勝手に思って、「すごいね~」って発した言葉も、
どこか上滑りで、父の心には届いていなかったのかもしれない。
いつも私は、期待に応える応え方をしようとするほうが先にたって、
純粋にはしゃぐことを置き去りにしてきた。
楽しい!嬉しい!ありがとう!!すごいね~!!って、ただ、素直に表現すればよかっただけなのに。
どう応えたら、相手は喜ぶだろうって生きてきた。
はっきりいえば、私は、望遠鏡に感動したわけではなかった。
けれど、なんだかわからないけれど、すごく楽しかったし、とっても嬉しかったんだ。
「そのなんだかわからないけれど、楽しい!」って感覚を、そのまま表すだけでよかったん
だって思う。
無邪気にはしゃぐことで、私を表現していいんだって、今ならはっきりと思う。
「自分は、この世界にただひとつの尊い存在なんだ」。
大人になった今は、星を眺めて、そんなことを思う。
マウイ島のハレアカラ山頂でみた星空から受けた体感覚。
その感覚は、私を原点へと導く。
私は、ただ私のまま存在していて大丈夫、だと。
今まで満点の星というにふさわしい星空に、いろんな場所で出会ってきた。
山の中のおばあちゃんち、沖縄の波照間島、北海道の山奥・・・。
実際には、満点の星にもっと出会ってきたはずなのに、これだけしかふいに思い出せない。
結局はそのときの心の風景が、私に「満点の星」と記憶させているのだ。
記憶を曖昧にするほどに、自分の心と風景は、シンクロする。
そんな私にとっての最高の星空は、やっぱりマウイ島のハレアカラ。
大好きな友人ガイドの話を聞きながら、360度を星空に囲まれていると、
不思議な感覚に包まれ始める。
隣にいるはずの人が、ふっと消えて、この宇宙にただひとり自分だけが立っているような。
静寂に包まれる深遠な瞬間。
これを闇というなら、なんと美しく優しいのだろうか。
そして、またふっと隣の人が現れる。
あぁ、私たちは、ひとりひとり別の「星」なんだ。
それぞれが、この大宇宙に守られて存在している、まったく別の星々なんだ。
自分自身をも、隣に立っている人をも、同じレベルで「尊い」と感じる温かさ。
宇宙に輝く星は、その尊い感覚を呼び覚ましてくれるのだ。
ドアーズ立ち上げの仲間である友人は、こう言っていた。
「人と人が出会うことは、宇宙の星と星が出会うことだと思っている」、と。
そこに感動と発見、奇跡が起こる。
私たちが、それぞれ、違う「星」であるからこそ。
だからこそ、そのひとつひとつの輝きを心から大切にしようと思う。
マウイ島ハレアカラの星空は、いつも私の心のなかにある。