どこまでも続く道。
そして、道のむこう。
そんな言葉の響きが好きだ。
10年ほど前に本屋で見つけた、『道のむこう』という写真集を、
私はいまでも時折ひらいては、道のむこうに思いを馳せる。
その道の向かう先になにがあるのか。
想像力を働かせるたびに、鼓動が高鳴る。
人生においても、私はいつもどこかで、"道"を意識していて、
日常や旅のなかで、どこまでも続いたり、その先を感じさせる道に出会うと、
印象深く覚えていたりする。
そして、その道はダイレクトに、その時々の人生の思いを象徴するのだ。
イギリスのウエールズで、子どもキャンプの引率をしたときに出会った道もそのひとつ。
小高い丘になびく緑の草々。
左手には、大西洋!!(後に勘違いだったと気づく)
息を飲むような美しい景色に寄り添いながら、トコトコ小道をみんなで歩いた。
「ぼくの~ゆく道は~、どこま~でも、つづく~・・・」。
そんな歌を日本語で歌ったのを覚えている。
当時22歳だった私は、大学を休学して、イギリスへ留学していた。
私は、どの道を歩もうとしているのだろう。
この先、どういう道へ進んでゆく選択をするのだろう。
どこまでも続くような道を歩きながら、毎日のように、そんなことばかりを考えて必死だったあの頃。
それから時が経ち、私は日本で就職することに決め、社会人になった。
タウン紙の記者をした3年半。
毎日、氷川神社の参道を通っての出勤だった。
その長い長い参道のちょうど3分の1くらいのところに会社はあって、
日常において、その参道の最後まで、行きつくことはない。
参道の先には、交わる道路が、いくつか見えていた。
光るようにみえるその動きは、ときにうらやましく、この道の向こうに行ってみたいと思ったりもした。
道のむこうには、光があるような気持ちにすらさせられたのだ。
今の現実から旅立って、向かう先には、夢と希望が満ち溢れていて、そこに行きさえすれば、幸せになれる錯覚さえ覚えた。
けれど、道を歩きながら、わかっていたのだ。
それは、幻想であることを。
今いる場所、そここそが私の咲く場所だと。
道のむこう。
そこにたどり着いたとき、私はまた思うだろう。
その道の向こうを。
いつもその道の向こうに思いを馳せて、その道の向こうに行ったら、
私はこうなれる、こんなことができる、そんな風にどこかで思っていた20代前半。
けれど、今足りない何かを追い求めるように生きる生き方では、幸せは得られないことも知っていた。
いま立っているこの道の感触を肌で感じたときこそ、幸せを感じることができるのだから。