森。
なぜか、森と聞くと、スイッチが入ったかのように、美しい想像力が働く。
眠れる森の美女。
森の妖精。
木立に鳥のさえずり。
湧き出る泉に、降り注ぐ陽光。
薄暗くて、おどろおどろしい、迷宮入りするような森を想像してもよかろうものを、
私の脳内は、良くも悪くも美しいビジョンを映し出してくる。
そして、その美しい想像によって、素晴らしい疑似体験が体内を駆け巡る。
それを人は妄想と呼ぶのかもしれない。
なんとも自分勝手な想像だ。
今回は、この想像力と絡めて、「森と私」の現在進行中のワンダーな体験を綴ろうと思う。
2012年、2月。
私は、初めて屋久島の森に出合った。
そして、屋久島の森に恋をした。
もっと触れたい、感じたい、一緒にいたい。
溢れ出す、その思い。
何かに突き動かされるように、帰ってきた翌日、再び屋久島へ渡るチケットを手に入れた。
次に訪れる屋久島の森は、どんな姿を見せてくれるのだろう。
私は何を感じるのだろう。
今回ばかりは、お得意の想像力はストップさせて、今という時を過ごすことにした。
ただ純粋に、そのエネルギーを感じたいという思いだけを大切にしようと決めたから。
屋久島。
今回、突然訪れるまで、屋久島は、とても遠い島だった。
「呼ばれた者だけが、訪れさせてもらえる島」。
なぜだか、昔からキャッチフレーズのように、その言葉が響いていて、
私の感覚の中では、海外よりもハードルの高い島だったようにも思う。
けれど、いつか必ず訪れると心に決めていた島でもあった。
10年以上前に訪れた母が、キラキラしながら伝えてくれた美しい世界に、
私も入ってみたいと、ずっと思っていた。
そんな敷居の高い場所のように思えたところへ、
いとも簡単に行くことが決まり、
あれよあれよと導かれるように、森のなかへ誘われていったのだ。
ふもとからは感じなかった、なんとも表現できない心地の良い感覚に、
初めて、森や山を歩くことを楽しいと感じた。
3日間で、20時間。
結構な距離と時間を歩いたように思うけれど、尽きない思い。
もっと知りたい、触れたい、感じたい。
それは、恋をしたときの感覚に似ている。
恋をすると、いつもの穏やかなペースが崩れた。
流れにまかせ、偶然のような必然の深まり方を待つことも、
楽しむこともできなくなった。
早く知りたい、触れたい、感じたいと、気持ちばかりが焦り、何かを強いる。
そして、想像の世界で、良くも悪くも、その相手は勝手に膨らんでいった。
フラッシュ的に、二人の間に何かが起こり、高揚感や最高の幸福感をもたらしては、瞬く間に夢の世界はこわれていった。
想像力は、生きるうえで素晴らしい力にもなるけれど、身を滅ぼす力にもなる。
想像力をコントロールできるのは、ゼロポイント、ニュートラルポジションを体得しているからだ。そんなこと、頭ではわかっていても、体がそう反応しなければ、意味はない。どんな言葉を並べたところで、体験にまさる解放はない。
それをよくわかっているから、私は旅に出る。
今回、私が恋した相手は、屋久島の森や山。
ただ、そこに存在するだけの自然そのものだ。
そこから動くことのない美しくも厳しい宇宙の産物そのもの。
相手から手を伸ばして私を抱いてくれることもなければ、
私のいる場所へ足を運んでくれるわけはない。
だからこそ、私は、また屋久島に行くことに決めた。
ただ、感じるためだけに。
あの森や山の奥深くまで、ゆっくりじっくり入らせてもらって、
踏み一歩一歩や、触れる一手一手を、確かに感じるために。
屋久島の森は、私が思う形で私を抱いても、会いに来てもくれないけれど、
私は確かに包み込まれていたし、呼ばれていたのだと感じている。
計り知れない自然の大きな力と宇宙の愛によって。
昔から、歩くことが大好きだった私に大好きな森が合わさって、
何かを教えようとしているのかもしれない。
ただ、森を歩くこと。
勝手なる最高の想像力は、ひとまずお休み。
「いま、そうしたいから」という純粋な思いに素直に、
目の前にある森を、そっくりそのまま感じて、
感動と感謝に溢れるワンダーな体験を積み重ねていこうと思う。
それが、今を生きること!
「いま、ここ」だけに集中して歩いた、屋久島の森。