心に優しい風が吹く。
柔らかな風が頬をなでる。
柔らかな風が頬をなでる。
風って言葉は身近な場面でたくさん出てくるけれど、「風」は、目に見えない。
自分から触れることもできない。
けれど、私はいつもどこかで、風を感じながら生きている。
自分から触れることもできない。
けれど、私はいつもどこかで、風を感じながら生きている。
物理的な追い風、向かい風の中では、歩み具合に差がでるように、目に見えなくても、
人生の追い風、向かい風も感じるわけなのだから、うまいことをいうなと思う。
人生の追い風、向かい風も感じるわけなのだから、うまいことをいうなと思う。
私にとって、旅にでて「風」を感じるとは、その土地の空気を感じること。
大地や、人間が作った街や、そこで暮らす人々の息遣いや思い、
言葉では言い尽くすことのできないすべてを、
五感で感じ取って、そこに「風」を感じているのだろう。
大地や、人間が作った街や、そこで暮らす人々の息遣いや思い、
言葉では言い尽くすことのできないすべてを、
五感で感じ取って、そこに「風」を感じているのだろう。
マウイに行けばマウイの風を、ペルーにいけばペルーの風を、
アメリカに行けばアメリカの風を、イギリスに行けばイギリスの風を。
これらの場所を言葉にしただけで、流れる「風」はまったく違うように感じる。
とっても不思議な感覚だ。
アメリカに行けばアメリカの風を、イギリスに行けばイギリスの風を。
これらの場所を言葉にしただけで、流れる「風」はまったく違うように感じる。
とっても不思議な感覚だ。
実際には、どこにいったって突風でない限り、風なんてそんなに感じないのに、
明らかにいつも私は「風」を感じながら生きている。
明らかにいつも私は「風」を感じながら生きている。
こういう感覚こそが、目に見えないものに包まれて生きている証なのかもしれない。
思いを馳せるだけで、そこに行ったように感じられるのは、
いつも「風」を意識しているからなのかもしれない。
想像力も創造力も、実はこの「風」の力によるものかもしれないとさえ思う。
いつも「風」を意識しているからなのかもしれない。
想像力も創造力も、実はこの「風」の力によるものかもしれないとさえ思う。
かつて、タウン紙の記者をしていた時に、取材した方からもらった言葉がある。
「大切なのは、日々努力を重ねること。自分の夢のために準備をしておくこと。
そうすれば、良い「風」が吹いたときに、ちゃぁんと乗れるから。
よい「風」が吹いたとき、その「風」に乗れるかどうかは、日々にかかっているのよ」
今でもこの言葉は、私の胸に大切に収めてある。
今日の午後、どんな風が吹いて、洗濯物を乾かしてくれるかわからないように、
明日、私の人生にどんな「風」が吹くのか、本当のところでは、誰にもわからない。
明日、私の人生にどんな「風」が吹くのか、本当のところでは、誰にもわからない。
私が、突然、セドナや沖縄、インドへ行くことになったように。
けれど、こういう「風」に乗れたのは、
日ごろ、どんな「風」でも乗りますよって心構えで生きているからなのだと思う。
自分の人生にとって、キラッと輝き、わくわくする「風」をやり過ごさない
感性を磨いていようと思って生きているからなのだと思う。
日ごろ、どんな「風」でも乗りますよって心構えで生きているからなのだと思う。
自分の人生にとって、キラッと輝き、わくわくする「風」をやり過ごさない
感性を磨いていようと思って生きているからなのだと思う。
そうやって自然のリズムを感じながら生きることを、
自然は教えてくれているのだろう。
私たちが、気づくか気づかないかだけで。
自然は教えてくれているのだろう。
私たちが、気づくか気づかないかだけで。
だからこそ、「風」に耳を澄ましていようと思う。
そこには、素敵なメッセージが隠されているはずだから。
そこには、素敵なメッセージが隠されているはずだから。
大好きなマウイの友人は、手紙やメールをこんな言葉で締めくくってくれる。
"ひろかちゃんの周りに穏やかな心地よい風が流れていますように☆"
彼女なりのおまじないなのだそうだ。
たったこれだけの言葉が、私の心に爽やかな「風」を吹き込む。
自分をまとう「風」がクリアになったような不思議な感じ。
たったこれだけの言葉が、私の心に爽やかな「風」を吹き込む。
自分をまとう「風」がクリアになったような不思議な感じ。
だから、今回は、私からも読んでくれているみんなへ。
"今日もあなたの周りに穏やかな心地よい風が流れていますように♪"
ツーソンでアメリカの広大な大地に沈む夕日を見たときにも、人生の新たな風を感じた