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今回のテーマは、「岩」。
岩ときたら、2度目に旅したセドナ帰り、今の私には、これっきゃないでしょ♪

同じ場所を訪れて、同じように岩に登っても、
行動も違えば、感じることもまった違う。

それは、当たり前のことなんだけれど、
その域、自身の感覚においては、別人!

人間って、たった1、2年で、別人ほどにも生まれ変わるくらいの、
驚異的な力をもっている生物だ。

私が、私自身に感じた、驚きと感動の体験記のはじまり、はじまり☆
あまりにボリューミーなので、Vol.15と合わせての前後編!


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ドドーン!

目の前には、わらっちゃうくらい巨大な岩・岩・岩。

ディズニーランドのビックサンダーマウンテンみたいな岩山が連なる景色が広がっていた。

「ひえぇ~!!これらに登るの?!」

高いところが、すこぶる苦手な私は、
笑いながらも、内心どきどき。

初体験だらけの出来事に、目をくりくりさせていた。
(いまとなっては、もう、その感覚すら忘れちゃったけど)


世界的なパワースポットと呼ばれるそこが、
どんな場所かもほとんど知らないまま、
2010年2月、宇宙が仕組んだかのような流れに身を任せて、
アメリカアリゾナ州のセドナという町までやってきた。

この旅が、一年後に「こころのドアを開く旅。ドアーズ」の発足に
つながっていくとは、このときは、夢にも思わない。

信じたのは、自分の直観。

「ひろかさん、セドナに一緒に行きませんか?」
と言われた一言に反応して、一度、断った返事をくつがえし、
「私、一緒に行きます!」と返事をした。

当時、個人的にはよく知りもしなかった、ゆうこさん(現ゆうこりん)と、
旅することを決めたのだ。

それは、私にとって画期的なことだった。
時間的、体力的、経済的な理由から、
旅に行く友人は、気心知れているA子かB子と限定していた。

それが何を思ったか、おせじにも親しいとはいえない人と旅をすることを決めたのだ。


その返事を決断というのなら、
その決断の瞬間に感じていたことは、ただひとつ。

まだ見ぬ自分の発見。
未体験ゾーンの自分の人生の可能性を、野性的感覚で嗅ぎ取ったことだった。

今までの人生のなかで、勝手に作ってしまった「制限」という枠を超える。
それは、自分が限界と思っている一線を越えること。

それなりに満足していて、自分の人生に「制限」をもうけていることにすら、
気づいていなかった感がある。
それを超える決意をした瞬間だったのかもしれない。

時間、体力、経済という言い訳で、
大好きな旅に、制限をかけまくっていたのだから。

大好きなものを制限することは、
人生そのものに、膨大な制限をかけることだと思う。


そして、もうひとつ。
セラピストの私が、ひとりでほんのり思っていた小さな未来の夢。
「感じていることをシェアしながら旅するツアーの定期開催」。

やりたいなら、「未来の夢」なんていって、もったいぶらずに、
今、できることから始めればいい。

単純に、ただそれだけのこと。

ゆうこさんがその時、何気なく話した夢と私の夢が重なった瞬間。
私のなかにあった小さな炎が、揺らいだのを感じた。

「セドナに行ったら何を感じるのか、何が起こるのか、
まずは自分たちで体験しなくちゃわからない。
いわば、これからのツアー開催に向けての下見みたいなもんだね♪」

それは、面白そう!楽しそう!!

そう感じた瞬間、「親しい子としか旅をしない」枠と制限は、
いとも簡単に、ぶっとんだ(笑)



テーマは、「岩」なのに、なぜこの話?!
なにが、「岩」に関係あるんだ?

関係、大有り。

なぜなら、この「岩」に登る行為こそが、
私がもうけていた限界を明らかにしてくれ、
そして、「制限」をドドーン!とはずしてくれたのだから。

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セドナ・ベルロックに登る直前。たった2年前なのに、まだ幼い雰囲気のゆうこりんとわたし。


旅を決めてから知ったのは、セドナでは岩山に登るということだった。

アウトドアとは無縁に生きてきたため、
自慢ではないが、靴からアウターから、グッズは何もない。

ゆうこりんにアドバイスをもらって、
旅出発3日前に、トレイルランニングシューズなるものを入手。

アウターも、ゆうこりんの気の利いた貸し出しにより、
2月のセドナもほっかほか♪


いざ、登らんかな!

が、その初日は、なんとも時間のかかる岩登りだった。

かわい子ぶりっ子でもなんでもなく、
高いところが苦手、恐怖心から足がすんで一歩も動けなくなる私。

高所恐怖症とでもカテゴライズされてしまうのか?!

へっぴり腰にぎこちない手足。

けれど同時に、負けず嫌いで、目の前のことに勇敢に挑戦する根性だけは備えている私。

スタスタ身軽に登っていくゆうこりんに、必死でついて登っていった。

どこに足を置こうか、次の足はどこに出そうか、
足場を真剣に探して、着実に一歩一歩。

2012年、ふたたび訪れたベルロックでは、
当時より遥かに高い場所まで、遊び感覚でいとも簡単に登ったのだから、
この最初の岩登り体験は、もう二度と戻ることのない地点だろう。

当時の旅ノートには、
「私たちは、どこまで行ける?
もっと上まで、もっと上まで。もっと上まで行きたい!
行ける限りのところまで!!」
と書かれている。

岩に登ることを、自分たちの人生の反映のように捉える感性は、
豊かな一面ではあるが、いまとなっては必死さがひしひしと伝わってくる。

翌日に登ったカセドラルロックでは、こんな風に記載があった。
「進んでみたら、怖くなかった。
楽で安心で、簡単で。
でも、それは、昨日のベルロックでの果敢なチャレンジがあったからだね」。

そして、ゆうこりんからは「ひろかちゃんは、もうすでに変わっているよ」、と。


私たちは、それぞれの何かを超えるために、このとき、真剣で必死だったのだと思う。

それは、今まで抱えてきたどうしても手放せなかった何かを流し出す旅であったり、
超えられなかった枠を超える旅であったり。

そういう必死な自分さえ、可愛いかったなと笑っちゃえるくらい、
2012年、これを書いている自分は、軽やかに変化しているようだ。


とにかく、当時の私は、自然の中でなにも考えず、
ただ感じること、沸き起こることに身をまかせ、岩に登った。

自分にとってはハードルの高い「岩」にしがみつき、
震えすくむ足を大地に踏ん張り、連日、登り続けた。

毎日、岩に登りながら思い出したことがある。

小学生のころ、どろんこになりながら、祖母のみかん畑で妹と遊んだこと。

山の中で跳んだり、登ったりしながら、いとこたちと探検したこと。

自然と戯れるのが、私は大好きだったこと。

いつしか、克服すべき存在であった「岩」は、
もっと戯れてみたい存在に変わっていた。

足元に真剣さは残しながらも、
明らかに、登るスピードも軽快さも増した。

最終日には、「また登りたい!もっと登りたい!!」と言っていたくらいだから、
からだもこころも、封印していた喜びに目覚めたようだ。

この体感がよみがえってから、私の人生は、さらに楽しい方向へ舵をきりだした。


「岩」。
赤土の岩肌に手をつきながら登ったその体験。
登るたび、その感覚は、更新されるがごとく、楽しさと喜びが上書き保存されていく。
必死な登り方から、軽やかな登り方へ。

やっぱりそれは、まさに、私の生き方そのものを表しているようだ。

(来月の後編へつづく☆)


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岩を登るのが、だんだん楽しくなる。セドナ・カセドラルロックにて。


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登った岩に腰を下ろして、巨大な岩山風景を眺める。地球であって、地球でないような場所。