コミュニケーションにおける、ありとあらゆるすれ違いは、
 相手が自分を犠牲にして快楽を得ているのではないかという妄想に基づいています。              
                        -小池龍之介『考えない練習』



Dear ひろかっち

今回は、ちょっと補足が必要かもしれない、こんな言葉を選んでみたよ。
この文章を書いた小池龍之介さんという方は、東大を出たあと出家してお坊さんになった人で、まだ30代そこそこのさっぱりしたお兄さんという感じの方なんだけど、その人が出した本の中の一説からチョイスした。

この、引用した文章は、相手の話(ここでは恋人が愚痴を言っている、という設定)を聞く際に、その内容だけを受け止めるのではなくて、相手の感情を浮き彫りにして受け止めてあげることが大事だと、言っているんだ。

そのためには、相手の愚痴を言ってるその声を「音」や「スピード」「トーン」といった情報として、より注意深く耳を澄まして意識を集中してみる。そのことによって初めて妄想のラップを突き破り、相手が実際に感じているのは苦しみ以外の何ものでもないということが理解できるようになる、するとようやく、私たちは相手に対して「慈悲」と申すべき、優しい心持ちを形成することが叶う、と言っているんだよね。

想像力が豊かで、感受性の強い私は、この想像力と妄想を自由自在に使いこなす・・・なんてことはできず、気が付けば被害妄想とでもいうべき、「現実には起こっていないのに、勝手に想像して苦しむ」というようなことがあったりする。

この文章の前後の一説に、ー「同じような愚痴を何度も聞かせて、この人は私を利用して快楽を味わっているに違いない」などと怒り、自らの苦をも余計に増やしてしまったりするのですー というのがあるのだけれど、「いや〜ホントそう!」と妙に納得してしまったりして。

ここでは2人の会話、というのが例に挙げられていたけれど、たぶんこれは、自分の中で繰り広げられているありとあらゆる考え事や独り言的な妄想にも当てはまるのかな、と思ったり。
瞑想のひとつのテクニックとして、いろんな考え事が浮かんで浮かんで、どんどん浮かんで来るけれど、それをひとつずつ、受け流していくことで、「無」に近づく、ということが言われているけれど、人は、あらゆる場面において、自分の意識からの情報も含めて、受け取る情報が多すぎて、どんどん自分の想像しやすい(考えグセがある)事項に、勝手に結びつけているのかもしれない。

だから、情報を敢えてシャットダウンするとか、取捨選択して、どこに焦点を当てるか決める、なんてことをやっていくと、そういった自分のためにも、相手のためにもならない、ヘンテコリンな妄想であったり、相手が目の前にいるのに、相手のことが全然わからない、なんてことも減ってくるのかもしれないな〜なんて感じたよ。

ひろかっちはこの言葉を受けて、どんなことを感じたかな?

ゆうこりん