吾唯足知(われ ただ 足るを 知る)
孔子の言葉より
Dear ゆうこりん
今回は、めちゃめちゃ短く投げかけてみたよ!
まさに先日、ゆうこりんがメールで送ってくれた、あの言葉です(笑)
この言葉を初めて知ったのは、10年近く前かなぁ。
京都の龍安寺にある蹲(つくばい)に彫られている言葉だと、新聞記事には書いてあった。
意味は、字のごとく。
「私は今の私で十分満ち足りている。足りないものなどないのです。
だから不平不満など生じない」。
その当時、私は地域情報紙の記者をしていて、足りているけれど、
満ち足りてはいないような感覚の中で毎日を送っていた。
すべては「今」に感謝することから始まると思っていたので、
この言葉を教訓にしようと、ノートに書き留めたのを覚えているよ。
私は、もっともっとがんばらなくては、もっともっと向上しなくては、
という思いが強すぎて、充分がんばって満ち足りている「今」を、
それでよし!とする感覚を忘れそうになることがある。
先日もゆうこりんが、この言葉をメールでおくってくれた時もそうだったね。
まだ8年しかセラピストをしていない。
私は、自分はまだまだだと思い続けていたんだ。
人に、「すごいですね!」と言われても、自分自身がすごいと思っていないので、
満ち足りていることを実感することができない。
それって、はっきりいって、とっても不幸なことだよね。
今を認めないということは、言葉を変えれば、自分自身に不平不満を
言い続けている状態とも言えるね。
人生において、成長していくことは素晴らしいことで、喜びのひとつでもあるけれど、
それはその都度、「いま満ち足りていること」を認識してこそ、
幸福感につながることなんだよね。
こうなりたい!こうしたい!という未来への思いと、いまを完全に認めることのバランス。
それがとても大切なことなんだと、改めて思う。
そして、刻々と変化していくこの今に、
毎日、ちゃんと感謝をしながら生きようと再度、思ったよ。
ゆうこりんは、この言葉を読んで、何を思い、何を感じているかな?
Comment [1]
DOORSさん
ひろかっち
問いかけ、ありがとう。
まさか自分が送った言葉がそのまま返ってくるとはこれいかに!
しかも、この言葉、以前私が知人に言われ、結構がっつーんと響いて
当時はショックも受けた言葉だったから、さらに驚きだよ。
要するに、これは相手へ向けた言葉のようで、それを鏡にして
自分へと向けられた言葉だった、というのを再認識させられる、という
そういうオチなんだなーと。
この言葉の元ネタ?は、孔子の言葉だったんだね。そんなことすら
知らないままに、でもとても印象に残った言葉として記憶されてた。
なぜなら、私もまたきっとどこかでいつも
「まだ足りない、まだまだ足りない!あれもこれも!」
って思っていたところがあるように感じるから。
人間って、ただ何も意識して生きていないと、
きっと欲望というか煩悩の塊なんじゃないかな、特にこの日本の
現代社会においては、と思う。
その欲望を刺激する装置を作り続けてるのが
現代の情報社会であり、経済というものの仕組みなんだよね。
でも、その欲望刺激装置を、ぜーんぶ取り入れて吸収し続けると
常に何かが足りない、と思ってしまう。
向上心は確かに大事、
あんな風になりたい、と目標を持つのもとっても大事。
でも、今、自分がもっているいろんな素晴らしいもの、
かけがえのない友人、家族、理想に近い環境での家、
好きな仕事をしてお金を稼いでいること。自由な時間があること。
旅が出来ること、社会との繋がりがあること・・・。
持っていないものももちろんたくさんあるし、
大変なこともすごくある。
でも、やっぱりきっとどんなに豊かになろうとも、
特に、何千万、何億円と経済的に豊かになろうとも、
心が「満足!」っていう感情を感じなければ
きっと「もっともっと!!!」って言い続けることに
なるし、いくらあっても、更に不安になるという
負の連鎖があるのだろうと容易に想像できる。
そして、たとえ今自分が持っていない状態、
例えばーー結婚して子供がいるーーという状態になったとしたら、
きっとそれはそれで、
自分の自由な時間がないことや、だんなの帰りが遅いとか(笑)
あーだこーだと、とにかく何か足りないものに嘆き続けることになる。
まさに、「隣の芝生は青い」状態。
ひろかっちの言うように、
「こうなりたい!こうしたい!という未来への思いと、
いまを完全に認めることのバランス。」
それがとても大事だと私も思う。そしてたぶん、
特に後者のほうを、すぐに忘れてしまいそうになるんだよね。
今、この瞬間が幸せ、と思えなければ、
たぶん一生そうは思える日は来ないんだよね。
不当な扱いをされた上に、寺院に軟禁され
改宗を求められる中国のチベット僧のような状態になっても、
それでも「幸せ」って思えるかは
今の私には修行が足りないかもしれないけれど、
少なくとも、今の自分の平穏な毎日を「幸せ」と思えなければ、
たぶん神様のバチが当たる・・・そんな気さえする。
最初に「足るを知る」という言葉とともに、
あまり全てを求めすぎないでね、と言われたときは、
本当に頭をハンマーで殴られたみたいに
「え?何?私ってそんなにクレクレマンみたいに求め過ぎなの?」
「パートナーが欲しいって思っちゃダメなの!?」みたいに
がーーんってなったときもあったんだけど、
今なら、その真意がちょっとはわかった気がするんだ。
本当の幸せは、求めることでは決して得られない
というそのことを、ね。
ゆうこりん
コメントする