「知る」ことは、「感じる」ことの半分も重要ではない。― 『センス・オブ・ワンダー』 レイチェル・カーソン
Dear ゆうこりん
とってもわかりやすい一文にしてみたよ。
大好きな本からの一節。
私は、いつも「感じる」ってことを大切にしている。
だからまずは、自分の目で見て、耳で聞いて、肌で触れて、感じてみようって思うんだ。
今の世の中は、情報が簡単に手に入る。
例えば、フランスのモンサンミッシェルやアラスカのオーロラを見てみたいって思ったら、美しい映像や写真で、すぐさま見ることができる。
もっと調べれば、成り立ちや歴史だって、いとも簡単に知ることができる。
行ったことのない場所や、やったことのないことだって、「知って」、行った気、やった気、体験した気になることだってできる。
それはなにも遠くの場所や大そうな事柄に関してだけではなくて、日常の中での小さな事柄に関しても同じことが言えると思うんだ。
身近なところでいえば、勉強。
「知る」ってことより、そのことを学び、何を「感じるか」のほうが、どんなに豊かなことだろうと思う。
大人になってからは特に、ただ「知った」ことは、知ると同時に「感じた」ことに比べたら、なんの意味もなさないようにすら思う。
レイチェル・カーソンは、この本で、子どもたちが、美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性(センス・オブ・ワンダー)を育むために、「感じる」ことが大切だと書いているのだけれど、それらは、とても共感できる部分。
本の中には、こうある。
「美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、讃嘆や愛情などのさまざまな形の感情が、ひとたびよびさまされると、次はその次の対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。
そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます」。
さらに、
「生まれつきそなわっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮に保ちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘など子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる必要があります」
とある。
私は、人生の醍醐味は、喜びも悲しみも、感動も怒りすらも、味わうことなんだと思ってる。
それらを抑え込まずに、ちゃんと自分で認めて感じること。
それが、「生き生き」生きるってことなんだと思う。
私は、どこかでずっと自分の本音を抑え込んで生きてきた過去があるから、今、全身でそれを表現でき始めた喜びを感じている。
そういう感じることを、表現することを、許すことができたのは、まぎれもなく、ゆうこりんに旅にたくさん連れ出してもらったからなんだ。
自然のなかで、なんにもしない時間、思いきりはしゃぐひととき、ただただ楽しい!って感じることは、私が蓋をしてきた「喜びを感じ、喜びで受け取るというセンサー」を開いてくれたように思う。
こんな風に、無邪気になるって、魂の本質に立ち戻ることのように思うよ。
だからこそ、「感じる」って本当に大切なことなんだね。
私から見ても、全身全霊でいろんなことを感じて生きているように見えるゆうこりん。
これを読んで何を感じたかな?
From ひろかっち
Comment [1]
DOORSさん
Dear ひろかっち
「感じる」大切さ。
なるほど、そうだね。今まで自分にとってあまりにもそれが普通のことで、別に毎日「今日も感じることを尊重するぞ!」とか思って生きてるわけじゃないので(笑)、深く考えたこともなかったけれど、改めて考えてみると、「感じる」つまり「ものごと感覚で捉える」っていうのは、結構原始的な、人の野生的なものに関係するものなのかな、と思ったりしたよ。
感じる、というのをもう少し理論的に考えてみると、つまりそれは五感「視覚=見る」「聴覚=聞く」「触覚=触る」「嗅覚=匂いを嗅ぐ」「味覚=味わう」(実際には人間の感覚には9種類以上のものがあるらしいけれど)を研ぎ澄ませて、その感覚を鋭敏にさせて、その上で、脳のどこかの部分を使って情動と呼ばれる「喜怒哀楽」のような感情を生んでいる、ということだよね。
要するに、感じることを尊重する、ということは、人の原始時代から脈々と受け継がれている感覚のセンサーをいかに活かしきるか?ということにつながるのかな、と。
人は、現代社会を生きている中で、どんどんそういう「感覚のセンサー」を鈍らせても、生死を彷徨うことがなくなった。むしろ、感覚のセンサーを鈍らせたほうが、感情をオモテに出さないほうが、繊細な自分の心を痛ませなくてよい、とわざと鈍らせて生きるということを選んで生きている人も、数多くいるように思う。
その方法ーつまり「どこかでずっと自分の本音を抑え込んで生きてきた」ような、感覚のセンサーをわざと鈍らせる方法ーは、ある種の苦肉の策というか、一瞬それがラクで苦しみから逃れられるようなことだったりするんだよね。
けれど、そうすることで、「自分が何のために生まれてきたのか?」わからなくなって、「喜怒哀楽をちゃんと味わう」人生の醍醐味みたいなものを失ってしまう。その袋小路は結構根深くて、一度入り込んでしまうと、なかなか外に出られないこともきっとあって。
でも、その「感じる」ってことを、否応なしに深く刺激するのが、旅をすること。
特に、ひとりで旅をすると、何もかもを全部自分で処理しなくちゃいけない。常に何かを感じ続け、そして次の行動を決めなくちゃいけない。特に予定のない旅ならなおさら。
そうすることで、たぶん少しずつ私も「ちゃんと感じる」ってことの大事さをいつの間にか見つけていて、だからこそ、旅をすることを自分自身もやめないし、そういう「常に旅をしている感覚」一瞬一瞬を大事に感じて生きる、ということを大切にしているのかもしれないな、と思うんだ。
感じることを尊重するってことは、人間という生き物の大きな特質ー脳が大きくて、考えるということをしていて、喜怒哀楽という情動があるーということを、最大限に活かして生きることが、たぶん本当の意味で自分が自分として生きている理由なのかもしれないなーなんて、えらくどでかい動物学的なことを感じたよ。そしてそれが、ひろかっちの言うところの「魂の本質」なのかもしれない、とも。
ゆうこりん
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