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山と私。

それは、無縁のものだと思っていた。
あの美しい島で、一歩一歩を踏みしめて登る喜びと、山頂にたどり着いたときの清々しさを知るまでは・・・。


山登りは、苦手。
それが、昔から、私の意識の置き所だった。

中学生のときの林間学校で登った山の、嫌な思い出が根付いていたからだ。
すっきりとしない天気に、前の人について登っていく時間の、しんどかったこと。

それでも、前向きな私は、はぁはぁ息を切らせながら、思った。
山頂に着けば、世間でいう山登りの達成感や喜びを、
私も少なからず体験できるかもしれない。

しかし、それは、儚い夢と消えた。
「ふ~ん、こんなものか・・・」。
こんなにがんばって登ってきたのに。

たしか、初登山という人生における初めての体験だっというのに、
今やその景色を思い浮かべられないほどに、記憶はうすい。


人生における、初の体験は貴重な機会だ。
その機会に、素晴らしい衝撃を与えることができれば、人生は大きく変わることだろう。
初体験というのは、願わくば、発見と感動に包まれていてほしいと思う。

その発見と感動が、人生の舵をとり、
果ては、壮大な夢へと自分を突き動かす原動力となるものだと信じてやまないから。


私の「山」との出会いが、もっと違うものだったら、
そこから広がった私の興味や世界もずいぶん変わったものだろうと思うけれど、
それはそれでよしとしよう。

もっとも、同じ状況で、どう感じるかは、私の感性によるものなので、
今となっては、そのころは「山」とご縁がなかったというしかない(笑)


それでも、中学生のころは、山登りというチャンスに恵まれていて、
同じころ、富士山に登った。
だれもが知る、日本一の山だ。

これが、また大変だった。
いま思えば、よくもまぁ、中学校の体育スニーカーで登ったもんだと感嘆の声を上げたいくらいだが、
とにかく、ガイドのおじさんに必死について行き、ひたすら根気強く歩いて、やっと下山したという印象だ。

ただ、最初の山登りとは違って、
夜明けから、山頂付近で拝んだ、ご来光は、それはそれは美しかった。

自分の身ひとつで登ってきた場所で、
美しい光に包まれる体験。

それは、感動と呼ぶにふさわしい感覚であっただろう。

けれど、その神々しさが霞むほど、
母や妹の高山で具合の悪そうな姿や、
登り下りの労力と時間を思うと、二度と登ろうという気にはなれなかった。

そこにたどり着くまでと、ふもとに戻ってくる大変さを思うと、
そうまでして、その感動を得ようとは、二度と思わなかった。

ご来光という感動は、私の原動力を突き動かすパワーにはなり得なかったのだ。
何度も言うけれど、あくまでこれは、いい悪いではなく、私の感性の問題。

なにせ、2013年現在、富士登山は、大人気のスポットでもある。
そんな富士山に対して、なんとも偏見極まりない私の感想だけれども。

「登山は、苦手だ」。
そして、「登山は、勘弁だ」。

それが、長いこと、「山と私」の関係だった。


さらに加えるなら、天空都市マチュピチュの全貌を眺められるようにと登った、
贅沢な山登りですら、登る喜びは見いだせなかった。
大好きな、マチュピチュなのに・・・(汗)

暑さと熱気で、ヘロヘロになりながら、
登山好きな母の友人に引き連れられて、登ったのを覚えている。

そのときの、私の爆笑名言。
「登ったら、なにかいいことあるの~?」。

なんとも軟弱発言だが、その台詞は、しっかりと旅の8ミリビデオに収められている。



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遥かなる天空都市マチュピチュ。尻込みしながら登った全貌を見渡せる山より。

そんな私が、いま山好きになり得ようとしているのは、どうしたことか。
2012年2月に旅した屋久島が、「山と私」との関係を決定的に変えた。
そして、それは、私の人生そのものを変えてゆく原動力ともなったのだ。

森や山を歩くという屋久島の旅へとたどり着いたのは、
瀧行を行う信州の森や、イルカと泳ぎに行った御蔵島での山歩きという経験が、
山への興味を深めてくれていたからにほかならない。

木や森が大好きだった私の関心が、
少しずつ広がっていった結果でもあった。

そして、母が「神々しい」と称した屋久島に、
未知なる神秘ときらめきを感じ、
「人生の中で必ず訪れる島」と決めていたからでもある。

そんな私に、またしても舞い降りた、ドアーズゆうこりんからの突然の屋久島行きの誘いは、もってこいだった。


決めたことは、実現する。
それが、この宇宙の仕組みのようだ。


それでも、この旅に至るには、小さくも大きな決断が、私のなかでは繰り広げられていた。

2011年3月の震災直後に、脳出血で倒れ、半身麻痺となり、精神障害を起こした母。
この1年は、家族や仕事、もっといえば自らの人生を抜本から見つめなおした年だった。
それでも今起こっている奇跡に目を向け、すべてを恵みに変えるべくして歩んだ年。

いま住む関東と実家広島の往復に、ほぼ終始し、
大好きだった旅へ、プライベートで出かける余裕は、全くなかったというのが正直なところだ。

この前年、自由な翼を得たかのように、旅に出かけ、
人生の制限をはずしたかのように思えた私にとっては、
またしても、その翼を使うことは許されないようにも感じられた。



人生の展開に許可を出すか出さないかの違いは、ただひとつ。
「決断」。
それだけなのだろう。



母の還暦の誕生日が明けたら、
またこの翼を自由に広げよう。

空から舞い降りる直感は、私にそう告げていた。

それは、母や家族を突き放すことではなく、
思いを掛けながら、私のできる範囲で支え合うってことだ。

私が自由に生きるってことは、
もっともっと私にも、家族にも、この世界にも喜びをもたらすことだ。


長い間、いろんな制限を自分でかけ、苦しんで生きてきた私にとって、
母や家族の状況を考えてなお、
関東に拠点を置き続けることや、ましてや旅に出ることは、
いままでの私なら、許されない行為であったことだろう。

それでも、私は、飛ぶって決めた。

そして、そんな私を一番後押ししてくれたのは、ほかならぬ母だった。
「屋久島に、行ってきなさい。あなたの人生が、さらに良い方向に必ず変わるから」。


たかが、旅に何を大げさな。
そう呼ぶ人がいるかもしれない。

けれど、旅には、人生を変えるほどの大きな力だってあるのが事実だ。
実際に、屋久島は、私の人生をさらに喜び溢れるものへと変えてくれた。

その森に足を踏み入れるやいなや、私が恋に落ちた話は、

屋久島の森や山は、私に新たな発見と感動を与えてくれた。
瑞々しく、美しい。
なんとも表現しがたい、心地の良い空気感は、いままでの山登りとまったく装いが違った。

一歩一歩踏みしめて歩く頂上への道のりも、感謝以外のなにものでもなかった。
この森や山のなかに身を置き、歩ける自由な幸せをかみしめながら、登った。
楽しくて、楽しくて、仕方なかった!というのが、素直な感想。

木々や木漏れ陽の美しさや、鳥のさえずりや、前を歩くガイドの友人Kくんの軽やかさも。
体感するすべてが、喜びそのものだった。

そして、その喜びをさらに大きなものにしてくれたのは、Kくんの屋久島を愛する姿だった。
口数少なくとも、屋久島が大好きな様子が、全身から伝わってきた。
そして、そのなんとも軽やかなこと。

移住を決める前の約8年間の屋久島との付き合いも軽快だ。
実家の姫路から、仕事が終わった夜にバイクで鹿児島へ。
そこから、フェリーで屋久島へ渡り、キャンプ生活。
しばらくしたら、また同じ経路で、姫路に戻る。

こういう生活を繰り返したというのだ。
「屋久島は、敷居の高い島とちゃうで~。気軽に来れるで~」。
そのコンビニ感覚に、衝撃を受けた。

私にとって、神の宿るような遠い島が、
「ちょっとコンビニ行ってくる~」、と同じ感覚だとは?!

「ちょっと屋久島行ってくる~」、か。

その新たな感覚に乗っかってみよう。
そんなことも"意識"しないまま、屋久島の森や山への思いだけで、その翌月、屋久島行のチケットを取った。

こんなとき、飛行機のマイルは、有難い。
なにせ、タダで屋久島まで飛んでいけるのだから。

2回目の屋久島で、Kくんに連れて行ってもらった山登りの楽しさは、
今でも体中で覚えている。

山頂に着いたときの晴れ晴れとした喜びも達成感も、
辿り着くまでの山道も。
すべて、「楽しい!!」の一言に尽きた。

そして、もっと屋久島の森や山と戯れたくて、その翌々月、
今度は、Kくんと組んで、「屋久島ワンダー☆ツアー」なるものまで、開催した。
これにて、2012年、屋久島3部作が完結した。


それでも、日常を過ごす私のこころの中に、いつも屋久島がある。
次は、プライベートで、いつ行こうか。
笑いと感動、ミラクルいっぱいのツアーを、またいつ組もうか。
そんなことを常に、こころの片隅に置いている。


わくわくと感動は、人を動かす原動力となる。


山とは無縁だと感じていた私が、
ツアーまで組んで、屋久島の「山」へと人を誘ったのだ。

ここまでくると、誰にでもわかることだろう。
「山と私」の関係が、明らかに変わったことを。
そして、私は、また自由に翼を広げて、自分の人生を歩み始めたことを。


山登り。
「山登りも、楽しいですよね♪」。
今の私なら、きっと、そう答えるんだろうな。

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気分爽快!!「やっほ~♪」屋久島・黒味岳の頂上にある大きな岩の上にて。