雲の上はいつも青空 Hope is already in your hand.ハービー・山口
Dear ひろかっち
今回の引用は、本のタイトルから取ってみたよ。
著者のハービー・山口さんは、写真家で、主にライカというドイツのカメラで白黒のポートレート(人物写真)を撮っている方なんだ。今年の春、彼の東北の子どもたちの写真を撮った写真展に行く機会があって、そこでこのタイトルのフォトエッセイ集を購入した。
ハービーさんの写真は、本当にハートフルで、写真のことなんて全然知らない私でも、その写真を見ると胸の奥に何かキュンとした気持ちを湧き起こさせるものたちばかりなんだけれど、驚いたのはそのフォトエッセイの文章だったんだ。このタイトルも含めて、その文章の書き方、余韻・・・。写真やカメラのことについて書いているエッセイだから、思いが強い、というのもあるかもしれないけど、とにかくその文章は、写真のおまけに書かれてあるようなものでは全然なかった。
写真はプロだから、まあ言ってみれば感動するのは当たり前といえば言い過ぎだけど、素晴らしいのはわかっているけれど・・・。プロフィールをよく読むと作詞なんかもされているようなので、文章だってプロなのだろうけれど、なんとなく自分にとっては、写真の素晴らしさは言うまでもなく、文章も同等にすごいっていうことが、妙に衝撃だったんだ。
自分を振り返ってみたときに、私は、ボディセラピストとしてプロでやっているから、文章を書くのは趣味だし、とか、文章は一生懸命書くけど、写真は単に好きで撮ってるだけだから、まあそんなに勉強とかしなくてもいいか、というような奢りというか怠慢がそこにはあるのではないだろうか?と思った。結局努力してない言い訳を、最初からしているんじゃないか?っていうようなこと。だから、今はそういう言い訳をしない人になろう、やりたいことや目標があるなら、その道のプロにはなれなくとも、なるつもりもなくても、好きだったり上達したい気持ちがそこにがあるなら、とにかく自分のできる限りの努力や労力をかけてみよう、と思うようになったんだよね。
雲の上はいつも青空。
そう、自分が曇った空の下にいて、どんよりした雨模様で、それが永遠に続くようなグレーで、そこに何も救いもないように思えるときも、飛行機で雨雲の上をびゅんと飛べば、そこには変わらない青空がある。青空は、希望を表していると思う、と著書の中で彼は言っていた。Hope is already in your hand. 希望はいつでも手の中に。
今、自分のやろうとしていることの複雑さや壮大さに、そして自分の目標と今の立ち位置の至らなさに、ときどき途方もなく、空を見上げてふとぼんやりしてしまいそうになるけれど、それでもやっぱり、青空と、雨上がりの虹を思って、歩き続けていくしかないんだな、と思うんだ。
ひろかっちは、希望、ということについて、または、一つのことだけに絞らずいろんなジャンルで才能を発揮することについて、どんなことを感じたかな?
ゆうこりん
Comment [1]
DOORSさん
Dear ゆうこりん
“雲の上はいつも青空”
素敵なメッセージだね!
私もいつからだったか忘れちゃったけれど、そういう風に思って生きてきていたよ。
中学生のころだったか、先生が父親か母親だったかが、こういうことを言ったのかなぁ。
それとも、自分でふっとそんな風に思ったのかなぁ。
きっかけはなんだったのか忘れてしまったけれど、
小さいころから空が好きで、あの上はどうなっているんだろうって、いつも思っていたからね。
以前、講演会で話をされた人も、同じようなことを「こころ」と「魂」に例えて話されていたな。
「こころ」は、毎日、お天気のように、ころころころころ変わります。
けれど、その曇ったり、雨がったりしている、雲のうえは、いつも晴れています。
その晴れているのが、私たちの「魂」です、と。
どんなお天気でも「魂」の美しさや清らかさは、変わらないんだよっていう例え話ね。
不思議だよね。
いろんな人が、それぞれ同じような感覚で空を見て、「希望」を感じる。
そして、「生きる勇気」を得たりするんだもんね。
自然には、普遍的な何かを教えてくれる偉大な力が秘められている証だね。
その普遍的なものを言葉で捉えられたとき、同じような感性の人との間に共鳴が起こる。
ゆうこりんが、このハービーさんの言葉に惹かれたのもそういう共鳴ゆえだし、
私も素敵な言葉だなって思ったのも、しかり。
そういう感性の共鳴を起こす力がある、「文章」というのは、たとえ伝えられることは、そのごくごく一部だったとしても、すごいものだなぁと思うよ。
私は、かつては、地域情報紙の記者や編集者として文章を書いていたけれど、
人にいくらほめられても、自分自身で満足のいくものというのは、ほとんどなかった。
そして、いまでも文章を書いたりするけれど、毎度、書きたい思いのほんの一部しか表現できなかった、もっと伝えられる表現があったんじゃないかと思う。
今、私は、こころとからだを元気にするライフヒーリングセラピストをしているけれど、それでも、文章を書くということをもっと鍛えたいと、常々思っているよ。
ひとつのジャンルに絞らず、いろんなジャンルで才能を発揮することについて?
これは、ひとつのジャンルを極めていけばいくほど、別のジャンルのことも極めやすくなっているんじゃないかと思うんだ。
結局、極めていくことって、自分にとっての真実や大切なものを見つけて大切に育てていく作業だと思うの。
その水脈は、必ず繋がっているから、同時にそれぞれが深まっていくように思う。
例えば、私の場合、「3原色のパステル画」と「自力整体」と「イメージ療法やヒーリングなどのエネルギーワークのたぐい」の3つは、別ジャンルだけれど、地下で水脈は繋がっていて、それぞれが呼応しているのを常に感じている。
ただ、それぞれに割くエネルギーは分散されるから、ひとつのジャンルだけを極める人より、いちジャンルで職人レベルの深さに達するまでに時間がかかっているのかもしれないけれど。
実際に、作品として没頭して絵を描く時間というものを私は、ほんの時々しか設けてないわけで、それだけをしている人に比べたら、やっぱり作品数も少ない。
それでも、同時に極めていく、面白さと深みは、たまらなく面白いなと私は思うよ。
その人の持つ特性だと思うから、いちジャンルを職人として極めるのも個人的にはあこがれるくらい素晴らしいと思うし、いくつかのジャンルにおいて、プロレベルまで極めていくことも素晴らしいと思うけれどね。
なんにせよ、やるからには、そのジャンルを極めていく過程が、とても楽しいなぁと思うんだ。
そして、こういう極めていく良さは、どこまでかいったら、はいここで終わりっていうようなゴールがない、終わりのない楽しさだなって思う。
それって、幸せなことだよね☆
From ひろかっち
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