待ち時間と、残り時間。人生はその二つのくりかえしのようにも思えます。待ち時間に苛立ち、残り時間に焦り、私達はそうやって暮らしています。石井ゆかりー『愛する力。』より
Dear ひろかっち
今回の言葉は、格言っぽいものではないのだけれど、こんな文章を選んでみたよ。
これには続きがあって、それはだいたいこんな風につづいている。
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待っているとき、私たちの時間は、
私たちを待たせている人のものになっています。
でも、時間を「残り時間」と考えるとき、
その時間はまぎれもなく、私たち自身のものです。
他人に期待したり、他人から急かされたり、
私たちはけっこう簡単に、
他人に自分の時間を明け渡してしまいますが、
それはもしかすると、
かなり勿体ないことなのかもしれません。
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待つこと。
タイミングのような計れない何かだったり、誰かの行動だったり返事だったり・・・。
どんなことでも「待つ」という行為には、上にあるように、時間が自分のものじゃなくて
他人や別のものが主人公で、自分はそこに従属するようなもの。
いつ、それが起こるのか?
いつまで待てばいいのか?
その問いは終わりがなく、正解もない。
そんなとき、何かの出来事が来るのを「待つ」のではなくて、この自分の人生の残り時間を
どう過ごすか、積極的に自分で「選ぶ」とき、たぶん同じ時間の過ごし方をしていても、
その心持ちは全く違うものになるんじゃないかな、と思ったんだ。
この「待つ」は、「期待」という言葉にも置き換えられるかもしれない。
期待という言葉にも「待」の字が当てられているように、チャンス(期)を待つ状態が、
期待の語意。「こうして欲しい」「ああして欲しい」「そうなったらいいのに」と、
煩悩だらけの私は、いつもついそんな風に強欲になってしまいがちだけれど、そこから
一歩離れることで、いろんなことが変わっていく。
「期待を手ばなす」っていうことは、「待たない」「自分で選び取る」ということ
なのかもしれない。そして、期待をせずに、自分の人生の残り時間を、自分でどう使うか
決める。そこには何かすうっと背筋が伸びて筋が通ったみたいな、美しさのようなもの
すら感じる。
だから、これからは「待つ」のはやめて、残り時間、自分の意志でまるごと生きよう。
この文章を読んで、改めてそんな風に私は感じたよ。
ひろかっちはこの文章と問いかけを読んで、どんなことを思ったかな?
ゆうこりん
Comment [1]
DOORSさん
Dear ゆうこりん
「待ち時間に苛立ち、残り時間に焦り、私達はそうやって暮らしています」。
という一文を読んで、まさにその通りだなぁと思ったよ。
そして、「私たちは、過去をわずらい、未来を恐れながら生きるとき、いまを生きているとはいえない」という言葉を思い出した。
私は、「いまを生きる」という言葉が大好きなのだけれど、これは、「すべてのプロセスを楽しむ」ということでもある。
セラピストの仕事をするきっかけとなった三原色のパステル画を描くとき、私はいつもこの「プロセス」のことを思うのよ。
もちろん出来上がった作品も美しく綺麗!と思うのだけれど、それ以上に、描いている最中が、心が洗われていくような、なんともいえない心地よさに包まれる。
色を重ねていくそのプロセスこそ、美しい今を存分に感じていることなのだと、はっきりと認識するんだ。
この三原色のパステル画は、ドイツのシュタイナーの芸術療法に基づいて生み出されたものなのだけれど、以前、水彩の芸術療法を学びに通っていた時にも、この「プロセスを楽しむ」感覚を味わった。
シュタイナーの芸術療法には、完成はなく、色を重ねる途中で感じることがすべて。
そして、そこには正解も不正解もない。
私は、これこそが、この世界だと感じた。
だから、いつも過去や期待するってことも含めて未来にとらわれそうになったり、待ち時間に苛立ったり、残り時間に焦ったりしそうになったときには、色を重ねていく工程を思い出すことにしているよ。
人生は、プロセスだってわかっていても、つい「誰の目にも見える結果」がほしいと思うことがある。
その結果を求めて歩むことが楽しく、生き生きとして進めるのなら、それはそれでいいとも思う。
けれど、それが自分を苦しめたり、いまを制限するのであれば、結果を一旦手放すこともひとつの方法だと思う。
三原色のパステル画は、まさにそのことを体現していて、「うまく描きたい」「こんな作品にしたい」という結果を手放して、ただ、色を味わい重ねていったとき、想像もしなかったような傑作が生まれる。
絵が下手とか、描けないと思っていても、突然、傑作が生まれるんだ。
人生にもそういう側面もあるんじゃないかなぁと思うよ。
だから私も、ゆうこりんが感じているように、もっとプロセスの大事さを意識して、丁寧に生きようって思ったよ。
From ひろかっち
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