占いに示される「変化」を、私たちは「未だ自分が見たことも聞いたこともない、天から降ってくるような『変化』であるに違いない」と想像しますが、実際は、自分で選択し、決断し、着々と進めてきたことに関して、「ここにその到達点がありそうです」という程度のもののほうが、多いのだと思います。-石井ゆかり 『筋トレ』週報より
Dear ゆうこりん
いろいろ考えたけれど、今の心境にぴったりくるこの文言にしようと決めて書き出してから、前回のゆうこりんからの問いかけレターも占星術家の石井ゆかりさんだったことに気づいたよ。
一瞬変えようかなと思ったけれど、今回は、これを書きたいと思ったので、素直にその気持ちに従うことにする。
こういうことも含めて、「選択」だね。
これを読んだとき、率直に本当にその通りだなと思ったよ。
例えば、独立した、結婚した、引っ越した、というような目に見える「変化」は、他人から見たら突然やってきたように思えるかもしれないけれど、実際にはそういうことはなくて、過去の一瞬一瞬の積み重ねで、そこに至ったにすぎないんだよね。
しかも、その至ったところだって、はっきりとした「到達点」なわけではなく、ゆかりさんの文言のように、「到達点がありそう」という程度のもの。
そして、それはゴールなんかじゃなくて、そこからまた選択と変化の連続で、また自分が決めた次の到達点のようなものへと進んでいくんだと思う。
結局、「到達点のようなもの」はあったとしても、「到達点」なんて、どこまで行ってもないんじゃないかな。
まぁ、でも、「到達点のようなもの」を感じると、なんとも言えない感覚になるね。
今の私は、ちょうど先日、ホームページのリニューアルが終わったところ。自分がやっていることを他人がわかる形で表現するという、この作業の終了は、私にとってはひとつの到達点だった。
とはいえ、初めから、作ることが目的ではなく、そこから広がるものを見据えていたのだけれど。
とにかく、今の心境は、到達した~!という清々しくスッキリしたという感覚ではないことは確か。着いたと思ったら、もうすでに、私の意識は次の到達点を向いていて、そこを目指そうと歩み始めている。
ここまでよくやったという思いと、まだまだこれからなんだという思いが混在する不思議な感覚。
きっと、自分の抱いた志や夢を叶えていくって、到達点らしきところへ着いて、また到達点を目指して歩んで、そしてまた到達点らしきところへ着いて、また目指して・・の繰り返しなんだろうなと思う。
人生が、「終わりのない旅」と称されるのは、こういうことなのだろうね。
と、こんなことを書きながら、今回は、ひとまず、「よくやった!!」と自分をほめてあげようと思ったよ。
この「到達点のようなもの」をちゃんと味わわずしては、次へ進む力がでない。
そういえば、イチローは、達成したらまずは飛び上がって喜ぶと聞いたことがある。
誰の評価も気にすることなく、思う存分、自分でその喜びを味わい、そして、次を向く。
単純なようだけれど、これは、とても大切なことなんだね。
到達点なんて、自分で決めているにすぎなけれど、到達点らしきところに来たと感じた時は、ちゃんと1回ごと、自分でそこまでの自分の選択や道のりを認めて喜んであげること。
私は、いま、自分にそういうことをしてあげようと思ったよ。
奇跡と言われるようなことにも、ちゃんと伏線というのはある。
それは、実際に転職するために情報を集めたり、転職活動をしたりといった直接的なものから、自分の意識を変える、祈るといった間接的なものまで含めて、全部、積み重ね。
そう思うと、やっぱり、自分のこころに素直に、私は、わくわくするという方へ進んでいこうと思う。
ゆうこりんは、「選択と変化と到達点」ということについて、どんなことを思うかな?
From ひろかっち
Comment [1]
DOORSさん
Dear ひろかっち
うん、確かにあるよね。
”占いに示される「変化」を、私たちは
「未だ自分が見たことも聞いたこともない、
天から降ってくるような『変化』であるに違いない」
と想像”してしまうようなこと。
そしてそういうパンを咥えて走っていたら角を曲がるときに
ステキな人とぶつかった!的な、少女漫画のワンシーンのような
まずあり得ないような奇跡的なシチュエーションを望んだりする。
白馬の王子さま症候群といってもいいかもしれないような、そんなこと。
けれど、だいたいの場合、どんなに傍目から見たら派手な変化
であったとしても、それは到達点のひとつでしかない。
結婚、なんていうのがその最たるものかもしれないよね。
結婚式というのが最終地点のように描いていることがほとんど
だけれど、本当のスタートはそこからだ、というような。
私はどんな「変化」や「到達点」においても、
ひろかっちが言うところの「伏線」というのが
とても大事なんじゃないかなと思っているんだ。
見た目にハッキリわかる結果や変化というのは、
数々の無数の目に見えない変化や結果が数限りなくあって
それが積み重なってようやく目に見えるようになる。
そして、なんとなく人は、最短最速、効率よくその結果に
結びつくようなことだけをしたい、と考えがちだけれども、
本当に自分がやりたいこと、望んでいることにたどり着く
までには、たぶんおびただしい「全然関係ないこと」が
実はとても大事なんじゃないかな、と思うんだ。
蜘蛛が、蜘蛛の巣の糸を張るように、
縦や横やいろんな方向に糸を張り巡らせて、
結果的に獲物が引っかかったのは右下の隅っこだったけれど
その結果が出るためには、一瞬無駄っぽい左上や横側や
縦糸という、関連してないような事柄たちがないと
その獲物は捕えられない。
ものごとを選択するときに、ある種のゴールを見据えて普通は
選んでいくけれど、でも、そのゴールに直接関係ないようなことも
いっぱいやるのがいいし、到達点なんて毎日あってもいい。
「こういう立派なものしか到達点として受け付けられない!」
というのも思い込みのひとつだから、
とにかく毎日、いろんな無駄っぽいどうでもいいようなことも
本当にそれが自分がやりたいことなら、たとえ人からみたら
時間の浪費でしかないようなことでも、やっておけばいいんじゃないか
と私は思うよ。
そしていつだって自分で自分を褒めていい。
毎日万歳三唱したっていい(笑)。
そんなふうに生きられたら、きっともっと気楽に
いろんなことがスルスルと動いていくんじゃないかな、なんてね。
ゆうこりん
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