空に浮かぶ雲を見ると、かつて訪れた国をふっと思い出したり、いま自分が日本にいることを強く実感させられたりする。
その土地ならではの雲の様子を感じることは、その国や土地を感じることでもあるなぁなんて思う。
そして、どこにいても姿を変えて出現する雲は、地球には本来は国境なんてなくて、どこまでも繋がっていて自由であることを感じさせてくれる。
日本の秋の雲も高く感じるけれど、とりわけアメリカに行くと、
雲が高いところにある気がしてくるのは、その広大な土地のせいなのだろうか。
自由を感じるのは、この国が創り上げてきた気質もあるだろうけれど、広々とした果てない広がりをそのまま感じさせてくれる、空と雲のせいもあるのかもしれないとさえ思う。
ロサンゼルスから内陸部に入った砂漠でジャンプ!
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その旅は、ロサンゼルス(LA)在住の友人から届いた1本のメールから始まった。
「ひろかっち、一緒にアラスカにオーロラを見に行かない?」。
すでに他の旅の計画があったため、
1週間ほど結論を迷ったのち、「行く~!!」と返事をした。
迷ったとはいうものの、本当は、最初から答えは出ていたのだけれど、
誰に何を言われようとも、自分の中で自分が納得する感覚を持ちたかったのだ。
何かを迷うとき、答えはもうすでに自分のこころの中にある。
私は、迷うとき、「ねばならない」と思っていないか、「もし~だったら」と思っていないかを、自分に問うことにしている。
もし、もっとお金があったら・・・行く。
もし、もっと時間があったら・・・行く。
今は、仕事をしなければならない。
今は、もっとしなければならないことがある。
など、人は言い訳を作るのがとっても上手だ。
人は、というより、脳は言い訳を作り、未知の世界にすぐ飛び込んでいかないような仕組みになっている。
あぶないから。
だから、実は、変化を恐れることすら私のせいではなく、この動物に生まれた性(さが)でもある。
という事実を踏まえたうえで、「ねばならない」と「もし~だったら」を一旦脇において、高速で脳内を整理する。
「楽しそう!」と感じているのは、どっちだ?
「いま、私がやってみたい!」と思っているのは、どっちだ?
答えは、本当は、最初から自分のなかにある。
そんなことを常々思っているわけだけれども、今回旅した二人は、まさに「楽しい」選択が人生をコロコロうまく転がしていくことを知り、そのように生きている人たち。そのシンプルな思考は、とっても清々しく、とてもシャープでクリアでもある。
二人と話していると、アメリカ人的な発想がその根底には流れていることを端々で感じる。
それが、今の私にはとても心地よく、さらに自分も体得しようと思うものであり、かつセッションやスクールに来る人の絡まっている思考や感情を紐解くのに役立ったりするものでもあるので、二人の言動の観察は、尽きることはない。
アメリカの教育は、すべて自分で考えさせ、自分で選択させることにあるそうだ。
小さなころから、「なぜそれを選んだのか?」「なぜそうするのか?」の説明を求められる。
誰かにその説明をすることは、自分の感覚を確かめるには絶好の機会。
自分さえその理由をわかっていれば、他人になんと言われようとも、私は私でいることに他人の目を気にしなくてもよくなるなぁと思う。
14年前、イギリスに滞在していたとき、「日本人は、maybe(たぶん)が多い」とヨーロッパ圏の友人たちに言われたことがあった。
まさに、言葉使いが曖昧さを象徴している。
アメリカは、「なんとなく選ぶ」という曖昧なことがない文化。
そこが、自己主張の文化と言われ嫌煙されるゆえんでもあり、シンプルで陽気なところでもあると思う。
相手の気持ちを汲み、思い図り、「沈黙は、美なり」で生きてきた、真逆にある日本の文化と融合していくと、世界は調和に向かってゆくのではないかなぁなんて思いながら、流れゆく壮大なアラスカの雲を見ていたのだった。
(続く)
アラスカの大地から見た雲。まっすぐな道を走り抜けて。