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空に浮かぶ雲を見ると、かつて訪れた国をふっと思い出したり、いま自分が日本にいることを強く実感させられたりする。

その土地ならではの雲の様子を感じることは、その国や土地を感じることでもあるなぁなんて思う。

そして、どこにいても姿を変えて出現する雲は、地球には本来は国境なんてなくて、どこまでも繋がっていて自由であることを感じさせてくれる。

日本の秋の雲も高く感じるけれど、とりわけアメリカに行くと、
雲が高いところにある気がしてくるのは、その広大な土地のせいなのだろうか。

自由を感じるのは、この国が創り上げてきた気質もあるだろうけれど、広々とした果てない広がりをそのまま感じさせてくれる、空と雲のせいもあるのかもしれないとさえ思う。



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ロサンゼルスから内陸部に入った砂漠でジャンプ!


*****

その旅は、ロサンゼルス(LA)在住の友人から届いた1本のメールから始まった。

「ひろかっち、一緒にアラスカにオーロラを見に行かない?」。

すでに他の旅の計画があったため、
1週間ほど結論を迷ったのち、「行く~!!」と返事をした。

迷ったとはいうものの、本当は、最初から答えは出ていたのだけれど、
誰に何を言われようとも、自分の中で自分が納得する感覚を持ちたかったのだ。


何かを迷うとき、答えはもうすでに自分のこころの中にある。

私は、迷うとき、「ねばならない」と思っていないか、「もし~だったら」と思っていないかを、自分に問うことにしている。

もし、もっとお金があったら・・・行く。
もし、もっと時間があったら・・・行く。

今は、仕事をしなければならない。
今は、もっとしなければならないことがある。

など、人は言い訳を作るのがとっても上手だ。

人は、というより、脳は言い訳を作り、未知の世界にすぐ飛び込んでいかないような仕組みになっている。
あぶないから。
だから、実は、変化を恐れることすら私のせいではなく、この動物に生まれた性(さが)でもある。

という事実を踏まえたうえで、「ねばならない」と「もし~だったら」を一旦脇において、高速で脳内を整理する。

「楽しそう!」と感じているのは、どっちだ?
「いま、私がやってみたい!」と思っているのは、どっちだ?

答えは、本当は、最初から自分のなかにある。

そんなことを常々思っているわけだけれども、今回旅した二人は、まさに「楽しい」選択が人生をコロコロうまく転がしていくことを知り、そのように生きている人たち。そのシンプルな思考は、とっても清々しく、とてもシャープでクリアでもある。

二人と話していると、アメリカ人的な発想がその根底には流れていることを端々で感じる。

それが、今の私にはとても心地よく、さらに自分も体得しようと思うものであり、かつセッションやスクールに来る人の絡まっている思考や感情を紐解くのに役立ったりするものでもあるので、二人の言動の観察は、尽きることはない。

アメリカの教育は、すべて自分で考えさせ、自分で選択させることにあるそうだ。
小さなころから、「なぜそれを選んだのか?」「なぜそうするのか?」の説明を求められる。

誰かにその説明をすることは、自分の感覚を確かめるには絶好の機会。
自分さえその理由をわかっていれば、他人になんと言われようとも、私は私でいることに他人の目を気にしなくてもよくなるなぁと思う。

14年前、イギリスに滞在していたとき、「日本人は、maybe(たぶん)が多い」とヨーロッパ圏の友人たちに言われたことがあった。

まさに、言葉使いが曖昧さを象徴している。

アメリカは、「なんとなく選ぶ」という曖昧なことがない文化。
そこが、自己主張の文化と言われ嫌煙されるゆえんでもあり、シンプルで陽気なところでもあると思う。

相手の気持ちを汲み、思い図り、「沈黙は、美なり」で生きてきた、真逆にある日本の文化と融合していくと、世界は調和に向かってゆくのではないかなぁなんて思いながら、流れゆく壮大なアラスカの雲を見ていたのだった。

(続く)

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アラスカの大地から見た雲。まっすぐな道を走り抜けて。


さぁ、雲。今回のワンダー体験記、雲と関係ないじゃん!と言われそうだけれど、それでも書いちゃう。

だって、雲を見ると、海外も日本も思い出すのだもの。
これも、私にとっては、雲にまつわる、立派なわくわく体験なのだ。


ということで、続きにゆこう。
私は、アメリカ大好き人間ではないけれど、アメリカに来ると、うきうきする。

そこかしこで一番楽しいのは、買い物をしたり食事をしたりして、店員さんたちとちょっとした会話をするとき。

「Hello! How are you?」
から始まるコミュニケーションが、こころを陽気にさせるのだ。

今回のアラスカでも、四六時中、なんでもないことで、私のこころはうきうきしっぱなし。
LAに住んでいる友達と一緒なので、この国のやり方に自然に溶け込めるから、よそ行き顔でおじゃまする感覚がなくなって、さらに旅が楽しくなる。


***

最初の衝撃は、14歳のときの渡米だった。
叔父家族がカナダに在住していたので、遊びに訪れさせてもらい、一緒にアメリカへ休暇に行ったときのこと。

ハリウッド映画に出て来そうな、体格のよい黒人の売店のお兄さんと、お客である金髪で真っ赤な口紅を付けた、これまた映画に出て来そうな綺麗な白人のお姉さんが、会話をしていたのだ。

ビジュアル的にも、ザ・アメリカみたいな二人が、英語で会話をしているだけでも、テンションが上がった。

さらに、私にも会話を仕掛けてくる二人!?
向こうにしてみたら、普通のことなんだけれども、英語を習いたての中学生には、なんて言っているのかわからない未知の言語だった。

「Japanese?Chinese??」と聞かれて、やっと「Japanese」と答えた程度。

カナダに住んでいた小学生のいとこに、「いま、こんな風に言われてたね」と後から言われ、なんにも聞き取れなかった自分の英語能力にショックを受け、私も英語を話せるようになる!と決意したことを鮮明に覚えている。


さらに、ディズニーワールドでは、長時間並んでいる人たち同士で、手をたたき合って、はしゃいで通りすがった。
それも衝撃だった。並んでいる間も、楽しいアトラクションのようだったから。

そのときも雲は、高いところにあって、青い空に彩を添えるかのような白い雲がどこまでも広がっていた。

そしてまた、私のこころはとても自由を感じていたのだ。

それが事実だったかどうかは、いまとなってはわからないけれど、私の記憶にはそんな風に刻まれている。


日本でだって、旅をしていると、よく「どこから来たの?」とか、「そこまでなら乗っけていってあげるよ」とか、会話をすることは多い。

けれど、関東圏内にすんでいるいま、家の近所のコンビニのお兄さんやおばちゃんと「元気?」とか「またね!」とは、会話はしない。

田舎とはいえ、広島空港までのバスの運転手さんも、アメリカみたいにジョークを交えて、「今日は、俺ジョージが、みんなを安全、快適に空港まで運んでやるぜ!まかせとけ!!イエ~イ!」なんて、楽しそうにアナウンスしたりはしない。

見も知らずの人と、日常に会話があるっていいなぁと思いながら、私は、今日もまた空に浮かぶ雲を見ている。

そうしながら、LAの友人が「江戸しぐさって知ってる?江戸時代には、アメリカみたいな日常での交流があったんだよ」と言っていたことを思い出した。

必然にもうちにある『江戸しぐさ』の本を開いてみると、「行き交うもの同士、知らない者であっても、会釈をする習わしがあった」「江戸商人にとって、会話は一期一会の大切なものと捉えられていた」というくだりがあった。

やっぱり、日本は、本来、粋な文化の持ち主なんだ。

さらに、「敬語とは、相手を立てる言葉で、むやみやたらと丁寧語を重ねたり、へりくだったりするものではなかったようです」。「客も商人も同じ人間で互角だという発想」、と書かれていた。


粋な日本。
そんな粋な日本が創れたらいいなぁと、また、ぼんやり雲を見ながら思う。

そして、そんなことをする今、日本で見ている雲も、アラスカで姿は違えども同じように発生していて、昨日までいたあの場所を、さらに身近に感じるのだった。


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壮大なアラスカの秋の空と雲。黄色に彩られた紅葉が美しい。